飲食空間の“空気をつくる仕事”——若林美樹が描く、清掃業界の価値と組織づくり
1.いままでのキャリアについて
私はいわゆる「キャリア」と呼べるような一直線の経歴ではなく、振り返ると一般的なレールから外れた経験の連続でした。
高校時代は進学校に通っていましたが、家庭環境の影響もあり不登校を経験し、大学進学は断念。その後はダンスの専門学校に進み、舞台やショーなどエンターテインメントの分野に取り組んでいました。しかし、通っていた学校が経営破綻するなど、思うように道を進めない状況が続きます。生活のために飲食店やコールセンターなどで働きながら活動を続けていましたが、持病であるアトピーの悪化により、最終的には芸能の道を断念しました。
大きな転機となったのは、出産を経てシングルマザーとして生きていくと決めたことです。子どものアトピー発症をきっかけに、自身の体とも向き合いながら健康について徹底的に学ぶようになりました。
その流れの中で、2003〜2004年頃から父の会社を手伝い始めます。当初はあくまで補助的な立場でしたが、決算業務や書類作成、報告書の整理、ホームページ作成など、できることを一つずつ担うようになり、徐々に会社の中核に関わるようになっていきました。父が営業から経理、労務まで一人で担う体制だったこともあり、全体像を理解することに苦労しながらも、「自分が会社を支える側にならなければならない」という意識が強くなっていきました。
その後、30代前半には商工会議所や交流会へ積極的に参加し、自社のプレゼンを行うなど外部との接点を広げていきます。同時に、経営や会計を体系的に学ぶ必要性を感じ、息子の小学校入学を機に日本大学の通信課程で学び直しを始めました。
しかし、33歳のときに子宮頸がんを発症します。抗がん剤治療の影響でアトピーもさらに悪化し、7〜8年にわたって日常生活にも支障が出る状態が続きました。大学での学びも中断せざるを得ず、思うように仕事ができない時期が長く続きます。
それでも、この経験を通じて自分の考え方は大きく変わりました。体や治療、そして心のあり方と向き合う中で、「自分が変わらなければ何も変わらない」「自分が動けば結果はついてくる」という感覚がより強く根付いていきました。病気も単に乗り越える対象ではなく、自分の生き方を見直すきっかけとして受け止められるようになったことは、今の自分の土台になっています。
そしてコロナ禍の直前から体調が回復し始め、そこから一気に仕事へ復帰しました。長く立ち止まらざるを得なかった時間があったからこそ、今はその分を取り戻すような気持ちで経営に向き合っています。華やかな経歴ではありませんが、これまでに乗り越えてきた経験そのものが、現在の経営の基盤になっていると考えています。
2.会社や事業の紹介
当社の事業は一言で表現すると、「飲食空間の空気をつくる仕事」だと考えています。
飲食店においては、料理やサービスだけでなく、空気環境そのものが体験価値を大きく左右します。煙や臭いの少ない快適な空間、安全性が担保された設備、そのすべてが揃って初めて心地よい空間が成立します。当社は、その“見えない価値”を支える役割を担っています。
もともとの主力事業は、厨房排気設備の清掃・メンテナンス、いわゆるダクト清掃です。飲食店のキッチン上部にあるフードから排出される空気の通り道には、日々の調理によって油汚れが蓄積していきます。この汚れを放置すると火災の原因となることもあり、実際にニュースで取り上げられる「ダクト火災」の多くはここに起因しています。
そのため、単なる清掃ではなく、安全性を維持するための設備管理としてのメンテナンスが求められます。当社では排気ファンや設備全体の状態まで含めて点検・整備を行い、機能そのものを維持することを重視しています。
現在は事業領域を広げ、焼肉店のロースター設備の清掃・メンテナンスも主力の一つとなっています。テーブル下の排気設備や上部のダクトなど、複雑な構造を持つ設備にも対応しており、専門性の高い領域を担っています。
さらに、空調設備の洗浄・メンテナンスにも対応しており、厨房だけでなく店舗全体の空気環境をトータルで支えています。また、厨房に設置されるグリスフィルターについては自社で開発・製造も行っており、施工だけでなく製品領域まで含めた事業展開を行っている点も特徴です。
また、この仕事は飲食店の営業に影響を与えないことが前提となるため、多くの現場が夜間対応となります。そのため、現場スタッフは店舗運営と両立する形で作業を行う、高い専門性と責任を伴う働き方をしています。
当社には10年以上勤務している現場責任者とサブリーダーが在籍しており、こうした体制を長年支え続けています。過去には、事務側と現場側で意見が衝突することもありました。私は現場に入れない立場でありながら、品質や報告内容について細かく指摘することも多く、当初は反発もあったと思います。
しかし、そうしたやり取りを積み重ねる中で、お互いの立場を理解し合い、現在では強い信頼関係が築かれています。現場スタッフは非常に素直で、こちらの意図を伝えればしっかりと応えてくれる。その関係性が、現在の品質を支えています。
当社の事業は表に見えるものではありませんが、飲食空間の安全性と快適性を支える重要な役割を担っています。そしてその価値は、設備だけでなく、それを支える人の力によって成り立っていると考えています。
3.経営ビジョンと理念
私が経営において大切にしているのは、「自分が変わり、行動すること」です。
これまでの経験を通じて、どんな状況であっても現実を変えられるのは自分の行動であると実感してきました。だからこそ、できない理由を探すのではなく、「どうすればできるか」を考え続けることを大切にしています。
一方で、会社としての軸づくりについては、これまで試行錯誤を重ねてきました。
もともと当社には、父がつくった理念がありました。「感謝」と「尊重」を大切にするという、とても本質的で素晴らしい内容です。すべてのことに感謝し、人や仕事を尊重するという考え方は、経営の根幹とも言えるものだと思っています。
しかし実際には、その理念が社内に浸透しているとは言えない状態でした。言葉として存在していても、日々の行動や意思決定にまで落とし込まれていなかったのです。
この状況をどう変えるかを考え、会議などで理念について話す機会も設けてきましたが、それだけでは十分ではありませんでした。そこで、社員を巻き込みながら、理念そのものを一緒に考え直す取り組みを進めてきました。
その中で現在形になりつつあるのが、新しい経営理念です。まだ完成形ではありませんが、大きく三つの柱で構成されています。
一つは、「食と空気を追求し、お客様の期待を超える価値を創造する」というものです。単なるサービス提供ではなく、期待を上回る価値を生み出すことを目指しています。
二つ目は、「心躍る空間を創出し、人と人をつなぐ共鳴の輪を広げる」という考え方です。飲食店の利用者はもちろん、その先にいるお客様まで含めて、空間を通じて心が動く体験を届けたいと考えています。
三つ目は、「感謝の心を持ち、豊かな人生を謳歌する」というものです。ここでいう豊かさは金銭的なものだけではなく、心の豊かさや人とのつながりも含めたものです。会社としての成果だけでなく、関わる人それぞれの人生そのものが豊かになることを目指しています。
また、理念に付随する形で、社風として五つの指針も定めました。「笑顔で挨拶をする」「やる気を持つ」「仲間を大切にする」「諦めずにやり遂げる」「チャレンジを大事にする」という、非常に基本的な内容です。
ただ、こうした当たり前のことこそ、継続して実践するのは簡単ではありません。だからこそあえて言語化し、組織として共有することで、少しずつ浸透させていきたいと考えています。
理念は掲げることが目的ではなく、日々の行動に現れて初めて意味を持つものです。今後も時間をかけながら、社員全員が同じ方向を向ける状態をつくっていきたいと考えています。
4.競合との差別化ポイント
当社の事業領域はニッチであり、特に焼肉店のロースター洗浄については、これまで競合自体がほとんどいない状態でした。ただ、今後は新規参入も増えていく見込みがあり、競争環境は変化していくと認識しています。
その中で、当社の強みは大きく三つあると考えています。
一つ目は「品質」です。
当社はこれまで駅ビルや商業施設といった、高い基準が求められる現場での実績を積み重ねてきました。そのため、単に汚れを落とすというレベルではなく、設備全体の状態を踏まえたうえでの仕上がりや、安全性まで含めた品質管理を重視しています。
二つ目は「事務機能を含めた運用体制」です。
清掃業界では、現場中心の体制となっている企業も多く、社長自身が現場に出て対応するケースも少なくありません。その分、迅速な対応ができるという強みはある一方で、事務対応や報告体制が十分でない場合も見受けられます。
当社では、現場と事務の役割を明確に分け、問い合わせ対応やスケジュール管理、書類作成までを一貫して行える体制を整えています。例えば、作業後には写真だけで完結させるのではなく、報告書として整理し、必要に応じて次回のメンテナンス提案まで行っています。こうした積み重ねによって、単発の作業ではなく、継続的な関係性を築いている点が特徴です。
三つ目は「技術への取り組み姿勢」です。
これまでも、汚れが付着しにくくなる薬剤の導入など、新しい技術を取り入れながら品質向上を図ってきました。現在は一部資材の調達が難しくなっている背景もあり、代替となる技術や手法の模索を進めています。環境の変化に応じてアップデートを続けること自体が、差別化につながると考えています。
また、競合に対する考え方にも特徴があります。
今後新たに参入してくる企業に対しても、単純な対立関係として捉えるのではなく、業界全体をより良くしていくための「共存関係」を築ける可能性があると考えています。
実際に、業界団体への参加を試みる中で難しさを感じる場面もありましたが、それも含めて前向きに捉えています。競争があるからこそ市場が健全に成長していく側面もあり、その中で自社としての価値を磨き続けることが重要だと考えています。
当社としては、品質と仕組みを基盤にしながら、技術と関係性の両面で価値を高めていくことで、選ばれ続ける存在でありたいと考えています。
5.現在注力していること
現在、最も注力しているのは組織体制の整備です。
これまで当社は、現場の技術力と経験によって事業を支えてきましたが、今後の成長を見据えたときに、属人的な体制から脱却し、組織として機能する状態をつくる必要があると考えています。
技術面については、外部の仕組みも積極的に活用しています。これまでは社内での教育が中心でしたが、私が事業を引き継いでからは各種団体への参加を進め、技術研修やセミナーを通じて知識の底上げを図っています。例えば、空調システムクリーニング協会などに所属することで、専門的なノウハウを体系的に学べる環境を整えています。
また、資格取得にも力を入れており、電気工事士など業務領域を広げるためのスキル習得を推進しています。直近では社員が資格を取得するなど、少しずつ体制の強化が進んできています。実務と並行しながら育成していくことが、当社にとって現実的なアプローチだと考えています。
一方で、現在最も課題としているのが事務・営業機能の強化です。
当社の事務は単なるバックオフィスではなく、顧客対応、現場との調整、スケジュール管理など、複合的な役割を担っています。いわば、現場と顧客をつなぐハブのような存在です。そのため、単純な業務処理だけではなく、状況を理解し、相手の立場を踏まえて判断できる力が求められます。
しかし現状では、「業務をこなす」ことに留まりやすく、主体的に会社を動かしていく視点を持つ人材が不足していると感じています。特に、顧客と現場の双方の意図を汲み取りながら最適な判断を行う役割は難易度が高く、育成・採用ともに試行錯誤が続いている状況です。
現在は、既存メンバーの役割定義の見直しと並行して、必要な機能を担える人材の採用・配置についても検討を進めています。組織として次のフェーズに進むための重要な転換点だと捉えています。
加えて、社内基盤の整備として、DX化とブランディングにも取り組んでいます。業務管理システムについては一度導入に失敗した経験があり、現在は再構築のフェーズに入っています。業務の効率化と情報の一元管理を実現することで、組織全体の生産性向上につなげていきたいと考えています。
また、これまで内側で積み上げてきた価値を外部にどう伝えていくかという観点から、ブランディングにも着手しています。新たに策定した経営理念を軸に、会社としてのあり方や提供価値を整理し、発信していく段階に入っています。
技術・組織・仕組みのすべてを同時に整えていく必要があるフェーズではありますが、この基盤づくりが今後の成長を左右すると感じています。
6.今後の展望・挑戦
今後の展望としては、大きく三つの軸で取り組んでいきたいと考えています。
一つ目は、業界全体の価値向上です。
清掃業界は慢性的な人手不足の中にありながら、人が生活する限り必要とされ続ける仕事でもあります。今後、技術の進化によって一部は効率化される可能性はありますが、現時点では人の力に大きく依存している領域です。
だからこそ、この仕事に対するイメージを変えていく必要があると感じています。単なる「清掃」ではなく、空間価値を支える専門職であるという認識を広げていくことで、自然と人が集まる業界にしていきたいと考えています。そのためにも、同業他社との横のつながりを大切にしながら、業界全体の底上げにも関わっていきたいと思っています。
二つ目は、専門性の深化と対応領域の拡張です。
現在の事業領域である厨房排気設備においても、今後はより高度な知識や技術が求められていきます。例えば風量計算など、設備全体を理解したうえでの提案ができる体制を整えていく必要があります。
そのため、人材の育成によって対応できる範囲を広げるのか、あるいはツールやシステムを活用して補完するのか、複数の選択肢を検討しながら進めています。また、すでに電気工事の資格取得や建設業許可の取得も進めており、これまで以上に幅広いニーズに対応できる体制づくりを進めています。
お客様にとって「この部分は別の業者に依頼しなければならない」という分断をなくし、「まとめて任せられる存在」になることが、今後の方向性の一つです。
三つ目は、営業体制の強化です。
これまで当社では、代表や現場メンバーが兼務で営業を担ってきましたが、事業の広がりに対して十分にアプローチしきれていない状況があります。既存のお客様の中にも、当社が提供できるサービスを十分に認知されていないケースや、フォローが行き届いていないケースが存在しています。
そのため今後は、ルート営業の仕組みを取り入れ、既存顧客との関係性を深めながら、潜在的なニーズを拾い上げていく体制を整えていきたいと考えています。
加えて、新たな取り組みとして、お客様のニーズをいち早くキャッチし、求められる商品を開発し増やしていくことにも注力しています。自社サービスに取り入れられるものがあれば迅速に反映し、開発の余地がある領域については積極的にチャレンジを重ねていく方針です。現場と一丸となり、新たな視点を取り入れながら様々な取り組みを推進しており、まだ実験段階のものも多くありますが、こうした積み重ねが将来的な価値創出につながると考えています。
ただし、新しい取り組みを広げていくためには、まず社内の基盤を整えることが前提になります。現在はその土台づくりのフェーズにあると認識しており、組織・仕組み・人材の整備を進めながら、段階的に挑戦の幅を広げていきたいと考えています。
7.読者へのメッセージ
経営には正解がないということに気づくまで、私自身も時間がかかりました。何をやればいいのか分からず、自分のやっていることが合っているのかも分からない、そんな状態が続いていました。
ただ、あるとき「正解がないのであれば、何を選んでもいいのではないか」と捉えられるようになり、少しずつ前向きに考えられるようになりました。
それ以降は、問題が起きるたびに「どうすればいいか」を考え、その一つひとつを積み重ねていく中で、点と点がつながるように、自分なりの経営の形が見えてきた感覚があります。
その中でたどり着いたのは、社員が判断できる軸、いわば“羅針盤”のようなものをつくり、それを組織に浸透させながら、同じ方向を向いて進んでいくことが経営なのではないかという考え方です。
細かいことだけにとらわれてしまうと全体が見えなくなりますし、逆に大きな視点だけでは現場が置き去りになってしまいます。これまで父は大きな視点で会社を見ており、私は目の前のことに向き合ってきましたが、これからはその両方を自分で担っていく必要があると感じています。
だからこそ、まずは足元を固めながら、その先につながる道筋を少しずつ描いていく。その積み重ねが、経営としての形になっていくのだと思います。
また、会社経営を通して社員さんたちの成長を見守ることができ、それは組織の成長にもつながり、社会へと広がっていくのが実感できる、素晴らしい仕事だなと思っています。
一番変化したなと実感しているのは、やはり自分自身です。これまでの経験を通じて、自分の考え方や向き合い方が少しずつ変わってきました。その“変化”が“成長”だといいなと思っています(笑)。
また、会社という存在は、想像以上に社会へ与える影響が大きいものだと感じています。社員やその家族、関わる方々、さらには地域や社会へと広がっていく中で、良い影響も悪い影響も与え得る存在です。
だからこそ、自分たちの会社としての在り方や価値観を大切にしながら、少しでも良い影響を広げていける存在でありたいと考えています。